高坂翔太がいつものように満員電車で揺られていると、スマホの画面が突然、青い魔法陣に変わった。アプリではない。誰も触っていないのに、画面中央に古代文字が浮かび上がる。

「警告：エーテル濃度超限界。適合者検出。魔導書起動序列開始」

同時に車両の窓の外、品川上空に、直径数百メートルの巨大な魔法陣が回転し始める。だが、周りのサラリーマンたちはスマホを覗き込むでもなく、ただ眠るかメールを打つかしている。彼らには見えていないのだ。

「お兄さん、あなたには見えてる？」

隣に立っていた女子高生が、小さな声で翔太に囁いた。彼女の瞳には、窓の外の魔法陣が映っている。

「……見えてる。でも、みんな何も言わない」

「普通の人には見えないの。でも、影響は受ける。だから、気づいてる人もいる。私も、今朝から変」

彼女は自分の学生鞄を開けた。中には、ペンケースが魔力の粒を弾くようにカチカチと震えている。

「これも、もうすぐ覚醒する予兆」

彼女の名前は月詠美咲。翔太の通う高校では有名な、静かで優等生タイプの少女だった。

その日の午後、東京23区の7カ所で「エリア変異」が発生した。新宿スクランブル交差点の歩道が沼になり、渋谷のビル群に霧の壁が立ち、池袋の太陽城が牙を剥く城塞に変貌した。ニュースは「大規模な体質性幻覚事件」として報じたが、翔太には見えていた。現実が書き換わっているのを。

美咲は放課後、翔太を呼び出した。

「私が狙われているの」

彼女は、スマホの画面を見せた。そこには、真紅の文字で警告が表示されている。

『調律者セル・ミサキ、発見。魔王軍直轄部隊による拘束プロトコル発動』

「調律者？」

「私の血が、古代の魔術式を制御できるの。それが原因で、向こう側から来た存在の、目覚めを誘発したみたい」

彼女の説明によると、東京の地下に眠っていた「電子魔力」と呼ばれる新しいエネルギーが、スマートフォンやネットワークの普及で急激に増加。それが引き金となり、異次元「エーテル領域」との境界が薄くなったのだという。

「その結果、剣と魔法の常識が、ここに漏れ出してきた。そして、漏れ出したものの中には……」

「魔王もいる、ってことか」

美咲は頷いた。彼女の表情は静かだったが、指先が震えていた。

その夜、翔太のスマホにアプリがインストールされた。「Brave Core（ブレイブ・コア）」という名前だ。アイコンは剣と魔法陣を組み合わせたもの。

起動すると、画面に文字が現れた。

『適合者：高坂翔太 クラス：未定（プレ・ヒーロー） 初期魔力：47ユニット 推奨装備：近接武器、シールド魔法』

すると、机の上の金属製のペン立てが輝き、形を変えた。金属が液化し、再構成されていく。最終的に、それは小さな円盾と、短剣になった。

「……マジかよ」

その瞬間、部屋の窓が砕けた。黒い粘液のようなものが、部屋の中に流れ込んでくる。それは床を覆い、やがて人型を取った。3体。魔王軍の斥候、「影刃（シャドウ・ブレード）」だ。

翔太は咄嗟に短剣を構えた。すると、スマホが自動でカメラを起動し、対象を認識した。

『敵性反応確認。影刃・歩兵型 推奨戦術：光属性魔法、物理斬撃』

画面に浮かぶボタンを押すと、短剣が光を帯びた。翔太は振りかざし、振り下ろす。光の軌跡が空間を裂き、影刃を塵に変えた。

だが、倒したはずの影刃が、再び集まり始める。再生能力があるのだ。

「ダメ、完全に消さないと！」

美咲の声がした。彼女は窓から部屋に飛び込んできた。手には、古代文字が刻まれた懐中時計のような装置を持っている。

「調律、開始！」

時計が光を放ち、部屋の時間を一瞬だけ停止させた。影刃の動きが止まる。その瞬間を逃さず、翔太はスマホを構えた。

『特殊魔法「デジタル・エクソシスト」発動可能』

スマホの画面が魔法陣に変わり、その光が影刃を包み込んだ。数字の列が流れ、影刃のデータを解体していく。3秒後、影刃は完全に消滅した。

「……終わった？」

「一時的にね」

美咲は息を吐いた。彼女の体が、淡く光っている。調律者の証だ。

「でも、これで私の居場所が完全にバレた。もう、時間がない」

その3日後、美咲は失踪した。彼女の部屋には、黒い羽根が1本だけが残されていた。調律者を追う特殊部隊「黒天狗（クロテング）」のマーキングだ。

翔太のスマホには、新しいメッセージが届いた。

『至高魔導王ザギリオス・ザ・グレートよりの宣告 調律者月詠美咲は、我が城「デジタル・パンデモニウム」に収容された 要求：無条件降伏、および電子魔力の管理権限全放棄 期限：72時間』

「デジタル・パンデモニウム？」

調べると、それは六本木ヒルズの最上階に、歪んだ空間として出現した異世界城塞だった。現実世界では六本木ヒルズは通常通り営業しているが、同時並行的に、そこは魔王の城になっている。普通の人間は並行世界を認識できないのだ。

翔太は、自分の武器を再確認した。短剣は、使うほどに成長していた。今では半分ほどの長さの剣になっている。スマホの「Brave Core」もレベルアップし、新しい魔法「エリア・シールド」「魔力感知」を覚えた。

だが、たった一人で魔王の城に向かうのは無謀だった。そこで彼は、美咲の残した手がかりから、他の「目覚めた者」を探すことにした。

最初に出会ったのは、銀座のデパートで働く元自衛官、明智カオリ（32歳）だった。彼女は目覚めたとき、デパートの警備用の盾が、光の盾に変貌したのを目撃。以来、銀座エリアの安全を守る活動を続けていた。

「私の盾は、人を守る意志が強ければ強いほど、硬くなる。君も、何かを守りたいって強い想いがあるんだろう」

彼女は翔太の剣を見て、微笑んだ。

次に出会ったのは、秋葉原の電気店員、ルーク（実名・佐藤流ク）という少年だった。彼はスマホの改造が得意で、Brave Coreをハッキングし、オリジナルの魔法を書き込んでいた。

「電子回路と魔法陣は同じだよ。両方とも、情報を扱う言語だからね。魔王の城への潜入ルートは、俺が攻略サイトを作るよ」

3人は、渋谷のバーガーショップを拠点とした。ここは、異世界化した渋谷の中でも、「中立エリア」として認識されていた。店主は、ある種の魔法生物で、美味しいハンバーガーを提供するかわりに、情報を集めていた。

「ザギリオスは、調律者の力で、『電子魔力』を完全に制御しようとしてる。もし成功すれば、この東京自体が、魔王領に変わる。人間は、魔力の中で溶けていくだけの存在になる」

店主の言葉に、翔太は拳を握り締めた。

「じゃあ、やるしかない」

潜入は、魔王軍が最も弱い午前3時に行われた。ルークが作成した「魔法ハッキングアプリ」で、城の外壁に穴を開ける。

城の内部は、まさにダンジョンだった。エレベーターは転移魔法陣に、オフィスフロアはモンスターの詰め所に変わっていた。各階に、「四天王」の1人が配置されていた。

1階：新宿エリアを支配する「暴食王ベルゼバブ」

元・飲食店チェーンCEOだった彼は、異世界化した新宿で、人々の欲望を吸い上げる怪物に変貌。戦闘は、歌舞伎町の喧騒の中で展開された。カオリの盾が、群衆の声をエネルギーに変換し、暴食王の攻撃を跳ね返した。

2階：渋谷エリアを支配する「虚飾王アスモデウス」

元・ファッションブランドのプロデューサーだった彼女は、渋谷の街を巨大な鏡の迷路に変えていた。ルークが、スマホのカメラを使って、鏡の反射を解析し、本物の道を見つけ出した。

3階：池袋エリアを支配する「憤怒王サマエル」

元・ヤクザの幹部だった彼は、街の怒りと憎しみを養分に、巨大な炎の魔人へと変貌。翔太は、初めて「剣の真名」を解放した。スマホの中に蓄積された、美咲とのメールのやり取りが、魔力となって剣に宿る。「守りたい」という想いが、具体的な形で顕現したのだ。

そして最上階。そこは、東京の夜景を見下ろすガラス張りのフロアだった。だが、ガラスの向こう側は、現実の東京ではない。歪んだエーテル領域の虚空だ。

中央には、黒い水晶の玉座。そこに座るのが、魔王ザギリオスだった。

彼は、現代のビジネススーツを着ていた。手には、スマートフォン型の魔導書を握っている。

「ようこそ、新しい時代の勇者くん。君の剣は、面白い形をしているね」

彼の視線は、翔太のスマホに向いていた。Brave Coreが、異常な魔力を放出している。

「しかし、遅すぎた。調律者の力は、もう我が物だ」

ザギリオスの後ろで、美咲が浮かんでいた。彼女の体は、無数のコードのような光の鎖で縛られている。彼女の目は閉じられたままだ。

「美咲！」

「駄目、翔太くん！ここは、魔王の法則が……！」

美咲の声は、電子ノイズに混じって歪む。

ザギリオスの攻撃は、文字そのものが力となった。彼がスマホで打ち込んだ言葉が、現実を改変していく。

「delete（削除）」

それだけで、翔太の剣が消失しかける。ルークが叫んだ。

「ダメだ、ここでは魔王の言葉が絶対ルールになってる！俺たちの考える価値が、力になる世界なんだ！」

その言葉に、翔太は気づいた。

「そうか……。だったら」

彼はスマホを取り出した。Brave Coreを閉じ、代わりに、いつも使っているSNSを開いた。そこには、美咲とのメモリが詰まっている。

「これが、俺の魔導書だ」

彼は、美咲との思い出の写真、メール、共有した曲のプレイリストを、全て魔法陣に変換した。現代の技術が生んだ、彼だけの物語。

「俺たちの、東京の記憶が、力だ！」

スマホの画面が、白い光に包まれる。そして、それは剣へと変貌した。ブレードの部分は、スマホの画面のように光り、文字が流れる。

「Brave Core・ニューレティブフォーム！」

サーバーの中の、誰かの応援の声。それが、魔力になる。この東京で生まれた、誰かの優しさが、力になる。

ザギリオスは、初めて表情を変えた。

「そんな……！個人の記憶ごときが、魔王の法則に……！」

「東京は、一人じゃないんだ！」

翔太の剣が、虚空を裂いた。光の軌跡は、魔王のスマホ型魔導書を貫いた。そして、無数のデータの奔流が、歪んだ世界を修正していく。

「美咲！」

光の鎖が解け、彼女の体が翔太の元に降りてきた。

「ごめん、待たせた」

「……バカ。でも、ありがとう」

二人のスマホが、同時に光った。Brave Coreが、新しいメッセージを表示する。

『限定イベント「魔王討伐」達成。新フィールド「調和する東京」解放』

ザギリオスは倒れたが、完全には消滅しなかった。彼は、データとしてスマホの中に閉じ込められた。そして、Brave Coreは、誰もがダウンロードできる、普通のアプリとして、ストアに再登録された。

「これで、誰もが勇者になれる」

美咲は、そう言って微笑んだ。彼女の体は、東京の電子魔力を安定させる「コア」として機能するようになっていた。調律者としての役割は、終わりではなく、始まりだった。

翔太は、高校の屋上で、スマホを見つめた。画面には、いつものSNSタイムライン。だが、その中に、時々、魔法の陣が混じる。仲間達の無事を知らせる、小さな光。

街は元に戻った。新宿スクランブル交差点も、渋谷のビルも、いつもの姿に。でも、翔太には見えた。歩行者の中に、時々、光る武器を持つ者がいる。カオリは相変わらず銀座の街を守り、ルークは秋葉原で新しい魔法アプリを作っている。

東京は、二つの世界の狭間に生きるようになった。誰もが知らない、そして誰もが気づいている、そんな日常。

翔太のスマホに、新しい通知が来た。

『新イベント「今日も平和な東京を守れ！」発生』

彼は、小さく笑った。そして、鞄にしまった小さな剣を、もう一度確かめる。

物語は、終わりじゃない。ただの、始まりだ。